北に八ヶ岳が見える我が家。
群生山岳であるところの八ヶ岳は、その頂が8つ見えることから八ヶ岳。
「ヤツ」という登山家の略称は、なんだか親しみと愛情に満ちていて、そんな名前をもらえたことを喜びたまえ、と山の方へ声をかけたくなる。
北に見える八ヶ岳を、ぐるりと一周。
西に見える八ヶ岳、南に見える八ヶ岳、東に見える八ヶ岳はそれぞれ違った顔を見せてはくれまいか。
人もみないろんな顔を持ってはいるけれど、なかなか違った顔を見ることは難しいものだ。
八面六臂、という言葉もたまたま「八」だけど、それだけ多彩な顔を見せてくれるということであろう。末広がりが、よいよい。
今日は冬用ウェアのテストも兼ねる。
気温16℃スタートで、厚手のメリノウールのベースレイヤーに、真冬用のジャケットという出で立ちは季節錯誤ではあったが、逆に凝り固まってしまった自分のレイヤリングの決まり事を問いただす良い機会ともなる。
下はビブショーツ。
上に脱げないジャケットを着る時は、少なくともニーウォーマーをして膝下までのウェアリングをしないとバランスの悪いこと悪いこと。
上に長袖を着て、下は膝を出してサマになるのは、タイトなジャージを着るシクロクロッサーだけである。
八ヶ岳をぐるりと一周。
とは言えど周りもまた山に囲まれている八ヶ岳では、その道平坦ということにはならぬ。
登りと下りを繰り返す。
浮き沈みの多い人生のようで、もはやメタファーであることを止めてしまったかのようだよ、自転車は人生においての。
春の日差しが差し込んできて、ここに小川が流れていることを教えてくれる。
冬は無音だった。川は流れず枝葉は触れ合うこと無く。
Ecoutez,le son d’eaux.
しばし登りっ放しでも、案外に暑くない。
日差しはさんさん、じりじりと肌を焼く中、存外に暑くない。
厚手のメリノウールアンダーも、ジャケットのジッパーをフルオープンにすれば通気性の良さが際立つ。
オーバーヒートしないのは、天然素材の最も良いところ。
こりゃ真冬にも使ってみたい。
標高も2000mを越えれば、雪も粘り強く生えている。
冬の思い出は、でも少し汚されていて、主役の座から引き離されうらぶれたかつての名優の面影。
高標高地帯にしか咲かない花もある。
高いところでしか咲けない花がある。
人間は、望むと望まざると高いところへ急かされている。
常に高みへ。登り切ったら、また次の頂が現れる。
限りない。
登るにつれ空が近くなってきた。
でも手は届かない。
でも鳥よりも自由。
2本の足は地面につくことは無いの。
春の花はたんぽぽ。
うららかな陽気に思わずおほほ。
八ヶ岳をぐるりと一周。文字通りのツール・ド・八ヶ岳。
いろんな表情(かお)を見せてくれました。
今度は山の中を縦走で、分け入ってみたい。
外面も内面も知りたくなるこの感情、恋かしら。
本を開く前に淹れたコーヒーが、まだ温かいことにも春の訪れを感じる土曜日、外は雨。
読書をするのにいい季節がやってきた。
今日は川上未映子の対談集に夢中。
対談の持つ力というものを、昔から信じているけれど、好きになればなるだけ、いろいろな対談を見れば見るだけ、良い対談とは少ないことを知るのだった。
僕もいくつかの対談をまとめたり、構想したりするのだが、話し言葉を書き言葉に置き換える生来の難しさと、言葉が行き来するそのテンポや言葉を受け取ったときの話者の反応などを文字にすることの難しさを文字通り痛いほど痛感する。
そして何より、対談の両者が化学反応を起こすような場とテーマの設定。既存の言葉を投げ受けするだけの対談は世に溢れていて、そこには対談の必然性が無い。
とかくビッグネームを並べるだけだったり、個々に一家言ある人間を2人並べただけの対談は、存外な平凡に終わることしばし。
タイトル通り6つの対談が収録されているうち、最初のもの以外のすべてが素晴らしく刺激的。残念ながら最初の精神科医との対談は、対談相手を枠にはめよう枠にはめようとしているのが見えてきて、言葉がねじれあって昇華する対談の醍醐味に欠けるところ。これも精神科医という職業の正規のプロセスだと逆説的に読むことはできるけれど、やはり言葉を扱う作家との対談、その瞬間だけにしか生成しえない言葉のアマルガム、勢いあまり噛むほどに混ざり合う活きた言葉の文字の定着を見たい。
多和田葉子との対談
多和田「いってみれば、狭間って存在しない場所ですからね。だから、ひとつの場所を作ってしまったらば……。」
川上「そこはもう狭間じゃない。あるのは定点の取れないグラデーションだけですね。」
永井均との対談
永井「ニーチェとの関連で言えば、それがつまり道徳神学上の『神の死』ということで、最後の歯止めになってたやつが実は壊れちゃってるから、そこもまたメタの立場から使えるということを人々が、……人々といってもみんなじゃないけど……。」
川上「一部の人が。」
永井「一部の人がもう気づいちゃってて、まずいって言えばまずいですよね。すごくまずくなるかどうかはわかりませんけれど、すごくまずくなるというほどではないような気もするけれども、部分的には綻びちゃっているということはあるんです。……」
永井「そもそも人がみんな生きたい、できれば楽しく生きたいって思っているという前提の下でないと倫理とか道徳って成り立たない」
川上「カントの道徳律のあの「標語っぽさ」「何も言ってなさ」にはそういう怖さがあるんですね。構造がそのまま動機でありえる。」
永井「そうそう。ニーチェ的な超人とかああいうものって別の価値を提示するけど、これまた別の意味でとてもポジティブなもので、ほかの人にそれを認めてほしいと思っているわけですよ。超人とか言ってもね。(中略)でも今の話のようになってくると、一般的な倫理規範として成立している価値全般を、ただそれが成立している価値であるがゆえに否定するという、中身のない否定ができちゃう」
久々によい対談を読んだ。
自転車の世界では、みんなが言論で生きているわけではないので同じアプローチはできなくとも、それでも面白い対談ができないものかと夢想している。特に、選手からどういう風に言葉を引き出すか。が最近の課題。
舞台は京。都の栄華をその名に残す京都は新緑に染まりつつある頃合い。
日本で第二回目を迎えるRapha Gentlemen’s Raceは、第一回甲信大会の人里離れた環境から、ぐっと人の暮らしと営みを横目に歴史の集積の間を縫うようなコース設定。
桜の散るか散らないか、春は逝きがけの好天と少し冷たい風となって京を通り抜ける。色彩の満ちてくる風景のなかには、5人同じジャージの集団が不思議なまでに溶け込む。
ジェントルマンズ・レース。
紳士のためのレースか、紳士を演じるレースか、紳士になるためのレースか、 それは走りながら確かめる他にない。
紳士とはどんな存在だったか?
Gentlemen’s Raceのスタートはいつも早朝。この朝の光ほどにライダーを祝福するものはあるだろうか? あるとすれば、それはゴールでの歓喜と絆の再びの結びつき。
在りしチューブラーの時代へのオマージュはGalibeer。
肩に背負うタイヤは往年のロードレーサースタイル。
かつてのロードレーサーたちは、間違いなくGentlemenだった。
モーリス・ガランがツール・ド・フランスのゴール後にさっさと身支度を整え泥だらけの敗者と隣り合った時、ロードサイクリストのあるべき姿は提示されたのだ。
あるいはファウスト・コッピの清廉さ、フェルディ・キュブレルのステットソンの帽子への愛好が。
ハードコアーと人は云う。
その実、それは真摯さの訳語である。
真摯さは紳士さとして結実するか。
Specialisedチーム。
選手ではないメーカーの人間が、楽しみこうしたイベントに自らの脚で応えてくれたことに多大な敬意と感謝を。
ライドを愛する者からしか、ライドを愛せるプロダクトを生み出すことは出来ない。
Raphaも然り。
川沿いに上流へ。
それはつまり、標高を上げていくということ。
いつだって水は低いところへとしか流れることはない。
フィルムグラファー、Ryota Kenmochi
甲信とは勝手の違うここ京都を、彼はどう撮る?
最初のKOMへ。林道への光の入り方の特別は、京都のそれ。
峠道を吹き抜ける風はまだ少し冷たい。
徐々にこれがGentlemen’s Raceであることをライダーは知ることになる。
いつから道とは、アスファルトで固められた自動車のための絨毯に成り下がってしまったのか。
僕の前に道はないと云った詩人の冒険精神を、我々は本当の意味で享受していたのだろうか。
自らの道を行ったすべてのサイクリストへの小休止は細やかな心遣いでもってして。
カレー。懐かしい味。少年時代がフラッシュバック。
プルーストのマドレーヌ、ジェントルマンの甘口カレー。
眠れる森の美女にたぶらかされることもある。
果たして果てしない未舗装路は続くよ続くよどこまでも。
2500m級のアルプスのこんな道を走っていたのが、100年ほど前のロードレースだった。
ツール・ド・フランスが冒険という言葉に置き換えられた理由が今ならよくわかる。
前を引く仲間がいることがどれほどに心強いことか。
切り離されて単独で山中にいる心許なさを、いつも目を三角にしてKOMを獲りにいく貴方は知っていますか?
戻ってきて、隣に寄り添う仲間がいる幸運。
山頂ではオーディエンスの拍手がパチパチと乾いた空気に響き、ライダーをねぎらう。彼らもまた、紛うことなき紳士であった。
絶景のチェックポイント3。京都の街並を眼下に。
この大会の手伝いのために一睡もせず京都入りしたハタオさんと、
生粋の京都人よりも京都の道を知るコースディレクター、Mr.ヴィンセント・フラナガン。
かつてXCワールドカッパーだったことや元全日本チャンピオンであることが、彼をレジェンドと呼ばしめているわけでないことを、改めて思い知った。
ライドを誰よりも愛し、それを共有しようとする広い視野と人柄。
ライダーそれぞれが何かを探そうとすれば到達できるルートの設定。
与えすぎず、かといって出し惜しみのないコース。
生粋のシクロクロッサー、錚々たるメンバーの横浜フリッツェンはチェックポイントへの入り方も当然このスタイルで。
あまりに愉快でライドを楽しむこの「チーム」は今大会のジェントルマンズ賞に相応しい。
Pana & Zenkoの辻善光選手もそうだったが、レーサーとして苦しい自転車との付き合い方を知る人こそ、この日のライドを楽しんでいたのが印象的。
京都のルートのほぼ全てに真っすぐな杉が屹立していた。
ライダーは杉の垂直、その間から差し込む光の直線に、幾何学的な世界の中を走った。
そしてこの屹立する垂直はバーのテーブル上に。
“A gentleman may love like a lunatic, but not like a beast.” La Rochefoucauld
『ジェントルマンとは野獣的であることを良しとせず、むしろ狂人的であろうとする者であるようだ』ラ・ロシュフーコー
Rapha Gentlemen’s Race Kyoto の参加者による写真はInstagramのハッシュタグ #gentlemensrace にて
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Rapha Gentlemen’s Race Kyoto (by yufta)
more photos & story come soon.
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